青猫日記〜断酒とジムと日々色々

断酒とジムと、他愛のない毎日の記録。

3.11を忘れない。我が家ののアルコール事情

こんばんは。断酒287日目の青猫です。

今日は3月11日。東日本大震災から5年が経ちました。

 

私は被災地と呼ばれる場所に住んでいました。

仕事中で、もの凄い揺れに驚いてデスクの下に潜った記憶が鮮明に思い起こされます。いつまでも止まらな揺れ、デスク下からは、目の前の床にバサバサと書類が落ちて山になっていくのが見えていました。

あまりの長さに、少し揺れがマシになったのを見計らって這い出してみると、私の席の頭上にあった空調の蓋が半分剥がれてぶら下がっていました。

天井も剥がれ始め、ボロボロと落ちてきていました。

 

ここは危険と、やっとみんなで移動することに。

外に出ようとしたら、玄関が崩落していて通れません。ここらあたりでやっと

「これはエライことになった」という感じがじわじわ体を這い上がってきていました。

別の出口からどうにか外に出て、ケータイで家族に電話しましたが通じません。メールもダメ。あ、さすがDoCoMoは通じていたようで、なんかマイナーな自分のケータイの悲哀を感じたりしましたね(^^;

 

それから自宅へ戻るのですが、いつも車で10分程の道のりが、もう大渋滞でノロノロとしか進みません。停車中も余震が襲ってきて、車体がグラグラ揺れて…。

もちろん停電で信号機も機能しておらず、そんな中を走るのも怖かったです。

ラジオからは、繰り返しアナウンサーの「落ち着いて行動してください」という声が繰り返し流れていたのを思い出します。

 

やっと家に戻ると、もう中は足の踏み場もない滅茶苦茶な状態です。

玄関のドアは開いた…というより、家にいた子供たちが開けっ放しにしていました。出られなくなると困る、という配慮のようでした。

でも玄関自体、下駄箱が傾いてしまって通るのもやっとという感じでしたね。

 

とりあえず足場確保のために、ごみ袋を引っ張り出してきて散乱するものを片っ端から押し込み、割れた食器を片付けているうちに、夫も帰宅しました。

家族が全員無事で、本当にホッとしたのですが、それも束の間でした。

その日の夜は、何を食べたのかは覚えていません。

ただ、私が夫に

「いつどうなるか分からない時なんだから、飲んじゃダメだからね!」と言ったことはなぜか覚えています。

夫は風邪で高熱があろうと親知らずを抜こうと怪我をしようと、とにかく絶対ビールは欠かせない、私よりもアル中に近い位置にいるはずの人だったのです。

 

その夜、夫と長男は寝室でパジャマに着替えてグーグー寝ていましたが、私と次男は余震が怖くて普段着のまま、リビングでごろ寝です。

たったひとつ、ちょうど夏に急逝した母の形見にもらってきた愛用のポータブルラジオだけが、安心出来る情報源でした。

一晩中ラジオから流れる地元放送局のアナウンサーの語り掛けを聞きながら、長い夜がやっと明けていきました。

 

次の日からがまた大変で、食料を調達にスーパーへ行っても長い行列。入場制限、買い物制限がかかり、とにかく必要最小限のものをと長時間並んで買物をしました。

その後もしばらく買い物制限は続いて、アルコール類は「一家族ひとつ限り」でしたね。

6缶パックのビールでひとつ、という考えなのですが、ノンアルコールビールも酒扱いです。酒コーナーにあるので当然といえばそうなのですが。

私は非常事態に備えて、しばらくはノンアルコールビールを飲んでいたのですが、夫はしっかりビール飲んでいたのでした…。

無神経なのか肝っ玉が据わっているのか、大いに疑問です。

 

4月にも割と大きな余震があって、やっと落ち着き始めた生活が、震災直後に戻ったような気分に落とされたこともありました。

その時は深夜だったのですが、停電で真っ暗な、落下物が散乱する家の中で私と子供たちが片付けをしていた時、おおらかな?夫は高いびきで爆睡していました。

肝心な時、ちっとも役に立たないなーと心底ガッカリしましたよ。

だから飲まないで欲しいのに、本当にアルコールってどうしようもないですね。

 

もちろん、他にも大変だったり嬉しかったりした思い出も沢山ありますが、アルコールと夫の頼りなさの記憶だけは別格で私の記憶に刻まれています(^^;

 

本当に、突然何が起きるか分からない時代です。

どんな時も、冷静に素面で大切なものを守れるようでありたいと、心から思います。

そして犠牲になった方々のご冥福をお祈りいたします。

今も震災の爪痕に苦しむ方々にも、一日も早い心の復興がありますように。

 

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