依存症と家族について私も考えました。
こんばんは。断酒362日目の青猫です。
今日は何だか慌ただしくて、朝からずーっと不完全燃焼気味でした。
「やることをやってから」というのが、私には難しいみたいです。
目の前の「やること」を片付けていると、いつまでも「片付いたらやろう」と思っていることが、出来ないんです。
結果、ストレスが残るばかり。
まあ、「やること」やらないでいるのもストレスですけどね。
どっちを取るかと言ったら、「やりながら、やる」が私には正解みたい。
わずかな隙間を見つけて差し込む方が、集中するし「火事場の馬鹿力」的なものまで発揮出来るような気がしています。
本来なら、どちらもじっくり取り組むべきものなんでしょうけどね(^^;
前置きが長くなりました。
昨日、ムーランさんのブログでアルコール依存症の息子さんを持つお母さんの記事があり、強く心に残りました。
今日のバタバタで、すっかりコメントの機を逃してしまったので、ここで書きたいと思います。
以前、少し書いたことがあるのですが、数年前、私は家族の依存症でかなり悩んでいた時期がありました。
関係する本を片っ端から読み、公的機関に相談し、紹介されたNPOのミーティングに参加し、それでも一向に解決せず、ネットで探して依存症当事者のミーティングに毎回参加させてもらっていました。
全国的には家族会もあるようでしたが、あいにく近くにそれがなく、「家族でも参加OK」という言葉にすがる思いで、依存症本人の集まる場に毎週通っていました。
何かしないではいられなかった……それがその時の気持ちです。
こういうのを「共依存」というのかも知れません。
まわりがどんなに心配しても、結局は本人の問題であり、どうしようもないこと。なのに、それに引き込まれて「自分がやらなければダメになってしまう」という思いに突き動かされてしまうのです。
結果、本人の問題を家族が被ることになり、それを繰り返していると一向に解決にならず、依存症は悪化するばかり…なのだそうです。
でも、母親は、やっぱり子どもを切り離して考えることは出来ないと思います。
かつて二人はひとつだったのですから。
母の胎内に宿った時から、この世に送り出した今でも、ずっと自分の大切な一部であり、分身なんです。
父親と違って冷静になれず、感情的になってしまう。それは仕方のないことだと思うのです。
辛かったです。私はどこに行っても答えが見い出せず、ただ依存症に飲み込まれていく家族に手をこまねいていることしか出来なかった。
すがる思いでたどり着いた先で、「なぜ強く言わないんだ」「放っておけばいい」「過保護だ」と冷たい言葉もあびました。
全然「言いっぱなし、聞きっぱなし」じゃなかったし、誰かの話にみんなが意見を言い合うような、そんなところが多かったです。
たった一言、救われたのが「お母さんが一生懸命にしていると、きっと良い方に向かいますよ」と依存症の方から言われた言葉でした。
欲しいのは、自分へのなぐさめだったんですね。
「わかるよ、辛いね。きっと大丈夫だよ」という言葉。
冷え切った家庭内では聞くことが出来なかった、寄り添ってくれる言葉が、欲しかったんですね。
ある時、「ここは私が来る場所じゃない」と唐突に感じました。
それから、ぷっつりとミーティングには出なくなりましたが、不思議なことにそこから問題は動き始めて、現在に至ります。
依存症は生涯つきあっていく病気です。
完治はあり得ないというのは、アルコール依存症と同じです。
でも、あの絶望の毎日を思うと、よくここまで回復してくれたな、と思うのです。
希望を決して捨てないでください。
たとえ理解されなくても、絶対に思いは届きます。
私が今、こうして毎日を心から楽しめるのは、あの冷たい日々があったからこそなのだと思います。
きっと、その日は来ますから。
信じましょう、あなたの大切なその人を。
何よりも、自分自身を。